縄文のムラ

 縄文のムラ・定住社会

旧石器時代(約15.000年前)は氷河期で、厳しい環境に生きて、動物を追い求めるハンターでの移動の生活を送っていました。旧石器時代後期には、少しは特定な住居のあったことが知られている。移動する放浪の民ではなく、半定着的で自然の季節的な要因を背景に移動したとされている。

 今では、旧石器時代にもある種の定住性が認められつつある。少なくとも竪穴住居の存在での「定住性」は旧石器時代に遡るだろうと。しかし、それがムラとしての意味には成り立たなかった。

本格的な定住生活は縄文時代になって始まる。各地の遺跡から竪穴住居がかなり見つかっている。鹿児島県国府市の上野原遺跡(早期前半・約8.000年前)では、伏屋式平地住居が多数発掘されて、定住集落が縄文早期に確立していることを示している。縄文時代早期前半の集落として各地に発見されている。

 縄文集落は、広場を囲んだ住居が馬蹄形や環状などに配置されることが多い。広場は祭りや食料の配分、ムラビトの会合として機能したし、勿論遊び場としての広場でもあったであろう。

 定住生活を営むと言う事は、限られた空間で継続的な食料供給。自然との調和の取れた共存と、植物の育成を含めた食用資源の増量化を考え出されていたからでしょう。

 今までの知識では、縄文時代は定住しない狩猟採集生活を送っていたように思われていましたが、ここで私の探索した限りでの各遺跡の縄文時代から弥生時代にかけて、定住することは何を意味しているのかを調べて見たい。稲作文化も弥生時代に始まってのムラから都市も、大型堀建柱建物での農耕祭祀の神殿か首長の館か。縄文時代にも小規模であるが、稲作も行われていたが、稲作という不安定な生産活動より、海や川、山の幸を使用した方が、豊かで安定した生活が維持できたが、人口が増えるに従い、ムラから都市への変化による社会構造が変わりだし組織的なムラ意識が必要になってきたようです。縄文時代は決して「原始」の時代ではなかった。縄文遺跡の内容を知りながら、当時の技術や文化の素晴らしさを経験してみたい。

 安田 喜憲氏は自らの縄文都市・文明論に対する見解を「今や古い文明概念を捨て去り、新たな文明概念の下に日本の縄文時代を再考察すべき時に来ている。都市や国家、文字、金属などを備えていなかれば文明とは言えないという概念の下では、縄文文化はいつまでも原始的で野蛮な段階に甘んじざるを得ない。しかし、縄文時代の社会は、自然と共生するというこれまでの文明には無かったもう一つの素晴らしい文明原理をもっていた。一万年以上にわたって縄文時代の社会でつちかわれた自然との共生・循環・平等主義といった文明原理こそが、地球環境の危機の時代に直面した現代人が求めるものなのである。「縄文文明の発見」とは、地球環境の危機に直面した現代人が生き残る為の新たなる文明像の発見である。国家や文字そして金属器の発生に文明の誕生を求める文明概念では、20世紀後半の近代工業技術文明の危機に活路を見つけ出すことが出来ないのである」。

 三内丸山遺跡での岡田 康博氏は、縄文時代観を見直しを迫る具体的な発見として、@ 巨大木柱痕や漆、ヒスイ加工に象徴される優れた建築・加工技術の存在。A クリやヒエなどの栽培技術の存在。B 住居、墓、倉庫、櫓、ゴミ捨て場、粘土採掘穴などの集落の各施設の計画的配置。C 通常一集落が消費する量を超えた土器や土偶などの大規模な生産。D ヒスイ、アスファルト、黒曜石などから窺われる他地域、遠方との交易。E 幼児の埋葬から窺われる再生観念の存在。F 大杉の住居や墓地のあり方などから窺われる階層社会の可能性、などの問題点をあげて、縄文時代が狩猟・採集・移動生活に基づく平等社会であったかを再検討する時期に来ている。といわれている。

 縄文時代以来の文化・思想を考えながら、現代の我々の社会生活があることを再確認しながら自分なりの都市化される大型掘立柱建物の資料を考えてみたい。

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