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奈良県御所市 葛城族・極楽寺 ヒビキ遺跡

葛城・極楽寺ヒビキ遺跡

掘立柱建物の想像図(2005年11月 橿原考古学研究所のだい23回公開講演会にて)

  はじめに

 極楽寺ヒビキ遺跡は、御所市大字極楽寺に位置します。調査地は、南北を深い谷に挟まれた独立丘陵の先端にあり、古墳時代中期前半の濠に囲まれた大型建物をはじめとする遺構を検出しました。

   調査結果

   建物1 濠に囲まれた区画内西側で検出した大型の四面庇(ひさし)付き掘立柱建物です。中心の建物(身舎・もや部分)が2間×2間(8.5m×8.0m)で四面に5間×5間(12.5m×13.5m)の庇が付きます。さらに西と南の二面に6間分(14.5m〜15.5m)の庇がつき、縁を巡らしていたようです。平面形は正方形で、床面積は約225uあります。柱痕跡全てに焼土が混じることから、火災にあったと考えられます。この建物の東側には遺構の存在しない空間があり、広場となっています。

   建物2 調査地の北東隅で検出した掘立柱建物で、梁間2間(4.5m)、桁行は4間(7.0m)あります。この建物は塀の区画より外側に建てられています。

 塀1・2 建物1の西から南へL字に折れ曲がる塀です。現状で南北23.5m、東西51.5mを確認しています。南側では2列になっており、渡り堤に続く場所で途切れており、出入り口としての門が想定されます。

   塀3・4 調査の東端で検出した塀です。この二列の柱列は、柱の大きさに違いはありますが、大型建物の正面に位置することから目隠し的な塀と考えられます。

   濠 建物や塀等が存在する範囲は濠で区画されています。区画の西辺・南辺から斜面に葺き石が施されていました。北辺と東辺の濠の存在は、後世の地形の改変により不明です。基底石に人頭大の石を用い、その上方に拳大の石を葺いた状況を確認することが出来ましたが、大半が崩落しています。西側濠の対岸は、曲線を描いています。濠の幅は約15mあり、濠内には意識的に置かれた立石が存在します

    渡り堤 濠で区画された内部に出入りするための陸橋上の遺構です。盛り土によって築かれており、幅は3mあります。南に向ってハの字状に広がり、取り付く部分からは初期須恵器や土師器の高坏が出土しており、意識的に割られたことが解るものがあります。

   まとめ

  今回の調査では、石葺の護岸をもつ濠で区画された大型掘立建物などを検出しました。出土土器に供膳具である高坏が多いことから、日常生活の場とは考えられません。区画内の建物に建て替えがないことも、その性格を表しています。濠内からも出土遺物が少なく、日頃から清潔に保つよう維持管理されていたことも想定できます。これらのことから、この大型建物を含めた区画は、祭儀や政務を行なった公的な性格を持った施設であると思われます。濠の中に据えられた立石の様子は、後の時期の庭園へのつながりを思い起こさせます。更に大型建物を区画する空間や区画周囲を廻る石葺きの外堤の様相は、古墳周濠内に設けられた島状遺構との関連も考えられます。

  この大型建物をもつ区画の構造は単独で成り立つのではなく、区画外堤の西側高台にも関連施設が存在すると思われます。調査地北側の谷筋には、水辺の祭祀を行なった南郷大東遺跡や大型掘立建物のある南郷安田遺跡などが確認されており、面的な広がりの中で理解する必要があります。

  濠で囲まれた区画が造られた時期は、5世紀前半のことです。大和盆地南部では最大の前方後円墳である室宮山古墳が築造された時期と重なり、密接な関連づけができるように思われます。

  葛城地域での有力豪族の姿が、より具体的に復元できるようになりました。

(北中恭裕・十文字健)

 巨大な柱 権勢の仕掛け

 極楽ヒビキ遺蹟が示すもの(辰巳 和弘 同志社大学・古代学)

 五世紀前半のヤマト王権を構成した豪族、葛城氏。その祭政空間と見られる遺構が、葛城山麓の極楽ヒビキ遺蹟で発掘された。

 東西約60m、南北40〜50m、長方形の空間は、斜面に石を張り巡らせた堀で区画される。南堀の中程に築かれた渡り堤が入口で、堀に面して立つ二重の堅固な板塀は、その部分が途切れている。残る三辺も板塀を立て巡らせていたことが、大きな柱穴の列から推察できる。形は形象埴輪から類推して、その上縁は三角形を連ねたギザギザだったろう。

 入口に入ると、700平方メートルを越える広場に至る。西側に立つ床面積160平方メートルの高床式掘立柱建物は、古墳時代で最大級だ。板塀で囲まれた空間には、この大型建物と広場のほかにめぼしい遺構はない。日常の生活空間でないことは明らかだ。首長がマツリゴト(祭事・政事)を行う「祭政空間」と断定していい。

 「古事記」や「日本書紀」は、後に「天皇」となる「大王」が支配領域を見渡す国見や、夢の中での神託の授受、新嘗などの王権祭儀を行う高床式の建物を「高殿」と呼ぶ。ヒビキ遺蹟からは大和盆地が北に一望でき、まさに国見の適地だ。高床建物は、葛城山麓支配した古代豪族が祭儀を行う「高殿」だったのだろう。

 遺蹟の北から東に広がる南郷遺蹟群では、水を使った祭儀の場や倉庫群、金属やガラスの工房、渡来系集団を含む多様な集落群が計画的に配置されたことが明らかになっている。ヒビキ遺蹟はそれらを支配した首長の祭政の場と見なす事ができる。

 私の目は、ある遺構にくぎ付けになった。祭政空間に入る祭の正面にあたる位置に、一列に並ぶ三つの巨大な穴だ。中に柱の一部が炭化して残っている。中央のそれは丸く、両端は断面が長方形の厚板状の柱だ。高殿の柱より太く、門とは考えられない。

 私は、それが首長を象徴する造形物と考える。厚板状の柱は、「石見型」と呼ばれる鹿角をデフォルメした形状の木製品を巨大かさせたものではないか。宝塚1号古墳(三重県)出土の華麗な舟形埴輪の甲板に、それが立てられていたことが思い出される。中央の柱は巨大な「王の杖」を象った木製品だろう。下長遺跡(滋賀県)出土の、丸い帯の結び目を造形した杖などが最有力の候補だ。それらは聳え立つ高殿とともに、祭政空間を荘厳なものとし、首長の権勢を誇示する仕掛けに他ならない。

 記紀によれば、ヒビキ遺蹟が営まれた時期、一帯は葛城襲津彦をリーダーとする葛城氏の支配下にあり、その本拠はこの遺蹟から西南にかけての「高宮」という場所だった。襲津彦の娘、磐之媛は仁徳天皇の皇后であり、履中天皇の時代に一族の円が大臣となると、葛城氏はヤマト王権内で大きな力をもった。葛城の地主神である一言主大神と雄略天皇が対面する説話はその象徴的な物語だ。

 今回の発掘された祭政空間の表面は、真っ赤な焼土で覆われ、炭化した柱も多い。激しい火で徹底して焼き払われたらしい点も注目される。ヒビキ遺蹟の存続期間はせいぜい一世代程度、各地で発掘されている豪族居館でも同様だ。私は大王の宮殿が代替わりのたびに移るのと同様、世代ごとの祭政空間の移動という行為が有力豪族の間に存在したと考えている。葛城氏の代替わりに伴い、「祓え」の意味をもって徹底して焼き尽した結果であろう。

 さらに、允恭天皇の諡号(おくりな)「オアサズマワコク」に見えるアサズマ「朝妻」は、ヒビキ遺蹟のすぐ南の地名だ。允恭朝の王宮が葛城に営まれた可能性も考慮しておくべきだろう。ヒビキ遺蹟が、古代史研究に提起する課題は多い。(平成17年・2005年4月15日、朝日新聞)

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5世紀の大豪族・葛城氏の「王宮」か 奈良で巨大建物跡


丘陵から大型建物跡が出土した極楽寺ヒビキ遺跡。遠方に奈良盆地が見える

丘陵から大型建物跡が出土した極楽寺ヒビキ遺跡。遠方に奈良盆地が見える=奈良県御所市極楽寺で

大型建物を囲った石張り。手前の堀の中には庭園を思わせるような大きめの石が置かれていた=奈良県御所市極楽寺で

大型建物を囲った石張り。手前の堀の中には庭園を思わせるような大きめの石が置かれていた=奈良県御所市極楽寺で

 奈良盆地南部の奈良県御所(ごせ)市で、石張りの堀に囲まれた5世紀前半(古墳時代中期)の巨大な建物跡が出土した。古墳時代としては最大級の規模で、県立橿原考古学研究所が21日、極楽寺ヒビキ遺跡と命名すると発表した。盆地を見下ろす標高約240メートルの丘陵にあり、大豪族葛城(かつらぎ)氏が治めた一帯の「王宮」のような施設だったらしい。火災で全焼した痕跡があり、葛城氏が雄略天皇に焼き打ちされた日本書紀の記述を裏付ける可能性もある。

 農地整備に伴い調査した。敷地面積は約1500平方メートルで、北と東が谷に面し、南と西の二方に堀(幅約13メートル、深さ約2メートル)があった。西側に主要な掘っ立て柱建物跡(約15メートル四方)があり、東側は約500平方メートルの広場。塀の跡や、物見台らしい小規模の建物跡も見つかった。

 主要な建物の中心部分の柱は直径約45センチで、太さや並び方などから2階建てと推測される。ひさしを支えた柱もあり、西面と南面には縁側があったらしい。1階部分の床面積約225平方メートルは、古代の代表的な豪族居館跡とされる群馬県群馬町の三ツ寺1遺跡の大型建物(約170平方メートル)を上回る。

 建物や塀などすべての柱跡からは、焼けた土や灰が見つかった。日本書紀では大王(天皇)と姻戚関係にあった葛城氏は、皇位継承をめぐる争いから雄略天皇に攻められ、焼き討ちされたと記され、当時の権力闘争を知る手がかりになりそうだ。

 遺跡からは祭祀(さいし)儀礼で使う高坏(たかつき)が見つかったが、日常生活で使う土器などは出土しなかった。同研究所は「居住場所ではなく、祭祀や政務を執り行った行政管理センター的な施設だった」とみている。

 極楽寺ヒビキ遺跡の北東約400メートルにある南郷安田遺跡では95年、17メートル四方の建物跡が見つかり、葛城氏の祭祀施設とされた。今回の建物跡はやや小さいが、同遺跡を見下ろす高台にあることから、別の機能を持つ一帯の中心施設とみられる。

   

  現地説明会は26日午前9時半〜午後4時。奈良交通(0742・20・3100)が近鉄忍海(おしみ)駅から専用バス(有料)を運行する。遺物展示は同日午前9時〜午後5時、同駅下車徒歩4分の葛城市歴史博物館(0745・64・1414

 〈葛城氏〉 朝鮮半島に出兵した将軍襲津彦(そつひこ)(4世紀末から5世紀前半ごろ)が始祖。当時の日本は、讃、珍、済、興、武の「倭の五王」が中国に盛んに使者を送って国際的地位を高めようとしていた。

 日本書紀によると、襲津彦の娘磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后になって履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)の3天皇を産むなど、仁徳から仁賢まで9代の天皇のうち8人が葛城氏出身者を妃や母としている。天皇(大王)家との深い結びつきで政治基盤を固めていったが、五王のうち「武」とされる雄略天皇が登場すると、天皇の政敵と目された皇子らとともに攻められ、勢力を失ったという。 (02/21 21:24) asahi.com


極楽寺ヒビキ遺跡: 葛城氏の中枢施設か 大型建物跡を確認

写真

眼下に祭祀場や住居群などを見下ろす尾根に位置する建物跡が見つかった極楽寺ヒビキ遺跡(後方は奈良盆地)=奈良県御所市で18日午後0時10分、本社ヘリから北村隆夫写す

 5世紀代に大王(天皇)に並ぶ権力を誇った葛城氏の本拠地とされる奈良県御所市の南郷遺跡群の極楽寺ヒビキ遺跡で、5世紀前半の大型建物跡が見つかった。床面積は225平方メートルと5世紀代で最大級。同遺跡群や奈良盆地を一望できる尾根上に位置し、敷地の周囲に濠(ほり)を巡らせるなど厳重に区画しており、21日発表した県立橿原考古学研究所は「葛城氏の王が祭儀や政務を行った中枢施設」としている。

 葛城氏は、仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)を出すなど、大和政権で大王の外戚(がいせき)として権勢を誇った。調査地は、約1キロ四方に祭祀(さいし)場や大型建物、竪穴住居、工房などが点在する南郷遺跡群の南端。同遺跡群は、葛城氏の勢力基盤となった「都市」とされるが、中枢施設の発見は初めて。

 建物跡は、約15メートル四方のほぼ正方形。斜面にふき石を施した濠(幅約13メートル、深さ約1.8メートル)で区画された、東西50メートル、南北32メートルの長方形の敷地内で確認された。正方形の二重の柱列(内側約8メートル四方、外側約13メートル四方)の西と南にさらに柱列があり、四面にひさしを巡らせたうえ、西と南に縁側も設けた特異な構造。東側に広場があり、建物と広場の周囲には塀も巡らされていた。

 敷地内の尾根突端では物見やぐららしい建物跡も確認。南側には渡り堤があり、塀が途切れた部分は門があったらしい。濠の中は立石が置いてあり、後の「庭園」につながる可能性もある。

 建物や塀はほとんどが焼失。存続期間は20〜30年とみられ、遺物の出土が少なく日常生活の場の可能性は低いという。橿考研は「一帯には王の住まいなどの施設群があったと想定され、今回の建物は『政治センター』の行政管理部門ではないか」としている。【中本泰代】

 ◇権力の大きさ示す

 石野博信・徳島文理大教授(考古学)の話

 奈良盆地を見渡すことを意識した立地で、葛城氏の族長クラスの人物に関連する施設と考えられる。周囲の平坦部に同様のブロックがいくつかあり、全体で一つの「館」を構成したのではないか。今回は、その機能の一部分だけの出土だが、極めて大規模。葛城氏の権力の大きさを測る一画が現れたといえる。

毎日新聞 2005年2月21日 19時52分


大豪族・葛城氏の「王宮」跡


極楽寺ヒビキ遺跡の大型建物の想像図(奈良県橿原考古学研究所)

240メートルの高台・古墳時代最大級

−極楽寺ヒビキ遺跡と命名−

奈良盆地南部の奈良県御所(ごせ)市で、石張りの堀に囲まれた5世紀前半(古墳時代中期)の巨大な建物跡が出土した。古墳時代としては最大級の規模で、県立橿原考古学研究所が21日、極楽寺ヒビキ遺跡と命名すると発表した。盆地を見下ろす標高約240bの丘陵にあり、大豪族葛城(かつらぎ)氏が治めた一帯の「王宮」のような施設だったらしい。火災で全焼した痕跡があり、葛城氏が雄略天皇に焼き打ちされた日本書紀の記述を裏付ける可能性もある。

焼き打ち裏付け?火災跡も

  農地整備に伴い調査した。敷地面積は約1500平方bで、北と東が谷に面し、南と西の二方に堀(幅約13b、深さ約2b)があった。西側に主要な掘っ立て柱建物跡(約15b四方)があり、東側は約500平方bの広場。塀の跡や、物見台らしい小規模の建物跡も見つかった。
 
  主要な建物の中心部分の柱は直径約45aで、太さや並び方などから2階建てと推測される。ひさしを支えた柱もあり、西面と南面には縁側があったらしい。1階部分の床面積約225平方bは、古代の代表的な豪族居館跡とされる群馬県群馬町の三ツ寺T遺跡の大型建物(約170平方b)を上回る。

  建物や塀などすべての柱跡からは、焼けた土や灰が見つかった。日本書紀では大王(おおきみ)(天皇)と姻戚(いんせき)関係にあった葛城氏は、皇位継承をめぐる争いから雄略天皇に攻められ、焼き打ちされたと記され、当時の権力闘争を知る手がかりになりそうだ。
 
   遺跡からは祭祀(さいし)儀礼で使う高坏(たかつき)が見つかったが、日常生活で使う土器などは出土しなかった。同研究所は「居住場所ではなく、祭祀や政務を執り行った行政管理センター的な施設だった」とみている。

  極楽寺ヒビキ遺跡の北東約400bにある南郷安田遺跡では95年、17b四方の建物跡が見つかり、葛城氏の祭祀施設とされた。今回の建物跡はやや小さいが、同遺跡を見下ろす高台にあることから、別の機能を持つ一帯の中心施設とみられる。
 
  現地説明会は26日午前9時半〜午後4時。奈良交通(0742・20・3100)が近鉄忍海(おしみ)駅から専用バス(有料)を運行する。

丘陵から大型建物跡が出土した極楽寺ヒビキ遺跡。遠方に奈良盆地が見える=奈良県御所市で

 

◆葛城氏◆◆ 朝鮮半島に出兵した将軍襲津彦(そつひこ)(4世紀末から5世紀前半ごろ)が始祖。当時の日本は、讃、珍、済、興、武の「倭の五王」が中国に盛んに使者を送って国際的地位を高めようとしていた。
 日本書紀によると、襲津彦の娘磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后になって履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)の3天皇を産むなど、仁徳から仁賢まで9代の天皇のうち8人が葛城氏出身者を妃や母としている。天皇(大王)家との深い結びつきで政治基盤を固めていったが、五王のうち「武」とされる雄略天皇が登場すると、天皇の政敵と目された皇子らとともに攻められ、勢力を失ったという。

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