現代の日本文化の基層

 「日本の基層文化」は縄文時代に求められる。(梅原 猛、抜粋)

  縄文文化は、狩猟採集文化である。その文化は原始的なものではなく、生産力の高い高度な狩猟採集文化であった。海に隣接した三内丸山は海産物が豊富に手に入り、川から川魚、集落の背後には自然の森が広がり、クリなどが取れていたが、自然に生育したものを採集していたのではなく、人工的に栽培されていたことで、非常に生産力の高い集落であったと見るべきである。

 この集落は、自給自足の自己完結型の集落ではなく、幅広い交易・交流が行なわれていた集落である。

 この時代の日本は、中国の影響を強く受けていたようだ。

  今から7000年程前、中国の揚子江下流域で稲作技術ができると、稲作は急速に広がり、5000年前頃には、稲作農業を基盤とする都市文明が揚子江沿岸に生まれた。その都市文明は、ヒスイを原料とする玉器を崇拝する文明であった。後にこの文明を滅ぼし、黄河流域に文明を作ったのは黄帝の子孫(後の東漢氏)もまた青銅器に玉器文明の伝統を受け継ぐほど、影響力の大きい文明であった。

  中国の玉器文明の影響を強く受けて、新潟県糸魚川周辺の「越」のヒスイが大切に扱われた。そして、日本の基層文化を考える上で非常に重要なこととして、稲作を輸入しなくても、食糧を十分に調達出来るだけの生産力を持った文明が日本に存在していたことを物語っている。三内丸山遺跡を通して見る縄文時代の日本には、豊かな食料生産を背景にした、からり質の高い文明が存在したと考えられるのである。

    基調は「木の文化」・「木の文化」

  縄文時代と言えば、縄文土器のイメージがある。しかし、三内丸山遺跡からは、それらの土器に加えて、実に見事な木製品が発掘されている。

  縄文文化と言うのは、人間が森の中で自然と一体になっている文化である。木造の住宅や丸太をくり貫いた船などは言うに及ばず、衣類や道具などの生活必需品も、当然、樹木に依存していたはずである。ただ土器や骨角器などに比べて、木製品は腐敗し易いため、残っているのは極僅かであるが、あくまで生活の基盤は森に依存していたに違いない。

   縄文文化は、非常に多様で変化に富んだ土器や骨角器を作った文化だから、生活の基盤にあった木製品はもっと精巧で、変化に富んだものを造っていたに違いない。それを証明するかのように、樹皮を十分に編んだポシェットが発見され、直径30cm程もある見事な漆塗りの皿をはじめ、多くの漆の器が発見された。現代でも東北地方は漆が盛んだが、現代と寸分違わない皿が、今から5000年も前の縄文時代に作られていたことは大変な驚きである。

   「漆を使いこなした縄文人」            

 「森の文明と日本」・「現代に生きる縄文文化」でお解かりのように、「日本の基層文化」であり、縄文人の思想は「木の文化」です。従来は、日本文化の主要な部分は、弥生文化以降の稲作農耕文化から受けついできたと考えられてきました。

  しかし、次から次へと発掘されて、現れてきた「木の文化」、中でも「丸木舟」・「縄文漆」の発見は、過去の縄文の考え方に反省を迫ると共に、現代文化の根底としての縄文文化の持つ歴史的役割を再評価すべき事を教えてくれました。

 即ち、「縄文漆」が確実に今日の我々の文化伝統に連続していると言う事です。漆工芸は、代表的な日本の伝統工芸であり、陶磁器はチャイナと言われるように、ジャパンは漆器を意味します。

  日本の漆工芸は、古代に於いて中国から伝来した技術が中心となって発達してきたと従来は考えられて来た(中国の浙江省の河姆渡{かぼと}遺跡の木椀の出土)が、日本最古の漆製品である福井県鳥浜貝塚(4月に私は確認してきました)の年代とは同じ時代(放射性炭素14の測定による)で、約6200年前である事が解りました。

 丸木舟は縄文人の生きるための必需品であり、また他の遺跡、遺物の殆ど(土器・土面・ストーン遺跡・ウッドサークル他)は生活や子孫繁栄に対しての必需品であったものが、この「縄文漆」は、直接には何の役にも立たない技術だったと言う事です。

  いかに美しい漆の製品を作ったとしても、それによって魚や獣がより多く獲れたり、木の実の採集が容易になる事がないのです。食糧をより多く安定して得たいなら、より優れた狩猟・漁猟の道具を作り出したり、効果的な狩の方法を考え出す方が早道です。それにも関わらず縄文人達は、多大の時間と労力を漆製品の製作に力を注いだのです。(単純技能では到底出来ないものです)

  これは縄文人の生活が、我々が従来考えていたよりもずっと安定しており、生存に直接関わらない作業に対して、十分な時間と労力を注ぐ余裕があったことを示しているのではないでしょうか。

  縄文人の植物利用の考え方が非常に高かったと言う事ができるのです。縄文人は漆(かぶれるのに)が優れた塗料であり、接着剤であることを見出し、工芸品の域にまで育て上げたのです。

  日本列島の植生が今日のような状態になったのは、今から約1万年前と言われます。縄文人はその日本列島の植物資源の中から、ドングリ・クリその他の食用植物の利用に留まらず、漆のような優れた塗料を開発したり、丸木舟や木製容器の製作に見られるような木工技術、籠や縄・綱への加工といった、植物資源の多方面に渡る利用を自分のものとしていたのです。

  「縄文漆」をここまでの遺跡によって判明された過程は、大変でしたが、鳥浜貝塚を初め青森県の亀ケ岡遺跡、千葉県の加茂遺跡とありますが、残念に思われるのが、昨年暮れ(2002年12月28日)北海道南茅部町大舟の埋蔵文化調査事務所からの出火です。垣の島B遺跡の墓から2000年8月に見つかった世界最古の縄文時代早期(約9000年前)の漆塗りの副葬品が焼けました。それ以外にも町教育委員会が言うには、糸か布状のものに漆が塗られ、ヘァーバンドや腕輪、足飾りなどの装飾品なども焼失したとのことです。

  縄文時代の漆櫛はシャーマン(呪術者)の頭部を飾る呪具で多くは赤色漆塗りですが、殆どが、装身具や弓などの櫛や腕輪、耳飾りに文様を施したりの高度な細工がされています。 製作過程の難しさは皆様が又の機会に調べて貰うとして、現在でもかなり高価な品物である事は間違いありません。

  漆には赤と黒が全てですが、「かぶれる漆に恐れを抱きつつも、艶やかな永遠の生命を讃える漆は、カミが宿る樹木として信じられたのでしょうか?こうした森の民の思想は今日に至るまで受け継がれています」。本物の漆器に触れたとき、何者をも優しく包み、深い異次元の世界に引き込まれます。漆はまさにいやしの塗料なのです。(輪島漆工の専門家曰く)

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