対馬暖流からの西高東低の風土に!

  約八千年前の暖流・豊かな森の王国・湿暖湿潤な水の豊富な日本列島

  凡そ八千年前のこと、日本列島の周辺環境に大きな変化が起こった。日本海に暖流が生まれた。

  それはその後の日本列島の気候を左右する一大事だった。

 フィリッピン沖に発生し、太平洋を北上する暖流・黒潮は沖縄付近で二つに分かれ、一方はそのまま太平洋を進み、もう一方が東シナ海を北上して対馬海峡を通り、日本海に達した。


  これが対馬暖流。九州と朝鮮半島の間は最寒冷期でも陸続きにはならずに水路となっていたが、幅は狭く、海流が流れ込むほどではなかった。その後の海面上昇で対馬海峡が大きく開いたことによって、日本海には暖流が流れ込むことになった。

 日本列島は太平洋に黒潮、日本海に対馬暖流という二つの暖流に挟まれ、海の影響を大きく受ける環境へと変化した。日本列島ならではの風土が生まれることになった。

 西高東低の冬型の気圧配置が強まると零下何十度という猛烈なシベリアの寒気団が日本列島に張り出してくる。日本海を流れる対馬暖流は冬でも暖かくて10度前後はあるから、そこには大きな温度差が生じる。

 そこで生まれる激しい上昇気流は湿った雪雲を生み、列島の中央を走る山脈を越える際に大量の雪を日本海側に降らせる。日本列島の日本海側は世界でも有数の豪雪地帯となり、その大量の雪は水となって地下に蓄えられた。

 簡単に言えば、以上のようなことが対馬暖流流入後の日本海で起こった。暖流のお陰で、湿暖湿潤で水の豊富な日本列島の風土が出来上がった。

 豊かな水の恵みで、列島はより一層濃い森に覆われ、東日本にはブナやコナラ、クリなどの落葉広葉樹の森が、西日本にはシイやカシまどの照葉樹の森が広がった。樹種豊富で実り多い、世界でも稀に見る豊かな森の王国・日本列島が誕生した。

 日本列島の森は豊かだった。特に東日本の落葉広葉樹の森はドングリやクリ、クルミなどの栄養価の高い木の実をもたらした。森に行けば誰でも簡単に拾い集められ、しかも大量に手に入ることができた。

 ただし、困ったことに、多くの木の実にはアクがある。クリやクルミは生食ができるが、ドングリはアクを抜きをしなければいけなかった。そこで縄文人は早い段階で土器を開発し、木の実を煮てアクを抜き、ドングリの食料化に成功した。土器の登場は食料の幅を大きく広げたのである。

 縄文人の食料獲得作戦が森を舞台に繰り広げられた。木の実以外にもイモや山菜、キノコなどの森の恵みを次々に食料化していった。狩猟も行い、シカやイノシシを山に追い、海や川では大量に魚を捕った。

 一年を通じて十分な食料が得られるようになると日本列島には定住生活というライフスタイルが定着した。温暖な気候と豊かな食料に恵まれた列島ではムラが拡大する条件が十分に整っていった。

渡辺 利明 NHK教育番組ディレクター

対馬海流 つしまかいりゅう 九州南西部で黒潮からわかれ、対馬海峡をとおる暖流。日本海の本州沿岸にそって北にながれ、サハリン(樺太)西岸沖合いに達するか、津軽海峡、宗谷海峡をとおって太平洋、オホーツク海へながれでる。このため東北地方では、太平洋岸より日本海岸のほうが気候が温暖になる。対馬暖流ともいう。

黒潮 くろしお 北太平洋西部をながれる、流速の強い暖流。名前は、海流の色が黒みがかった藍(あい)色にみえることに由来する。日本海流ともいう。フィリピン東方から日本の東海岸にそって北東へながれる。日本の北の近海で、南西にむかう寒流の親潮と合流して世界的な漁場となっている。この2つの海流は北太平洋海流となり、太平洋を東へながれる。

黒潮はメキシコ湾流に似て、幅は約100km、流速は35ノットに達するはやい海流である。しかし、流速は変化しやすく、通常のコースからはずれて蛇行することも多い。流路を大別すると、日本の南岸を直進する流路と、紀州沖にできる大冷水塊のため南側に大きく蛇行する流路がある。大蛇行は数年つづく場合もあり、気象、漁業などに影響をおよぼしている。

黒潮にはカツオ・マグロ・ブリ・サバ・イワシ・アジなど多くの魚類が生息し、日本の沖合い・沿岸漁業をささえている。また、古くから南の動植物や文化をもたらす海流で、日本と南方地域の交流に大きな役割をはたしている。

対馬海峡 つしまかいきょう 長崎県対馬と壱岐の間にある海峡で、東シナ海と日本海をわける。海上保安庁水路部では、対馬北西方の朝鮮海峡(西水道)をふくめて総称し、狭義の対馬海峡は東水道としている。一般には玄界灘・壱岐水道などをふくめた本州西岸・九州北岸と朝鮮半島南岸の間の海峡部全域をよぶことが多い。東水道・西水道とも幅約50km、東水道の最大水深は135m、西水道の最深部は対馬北端沖の228m

玄海町 げんかいちょう 佐賀県北西部、東松浦郡の町。東松浦半島の西岸に位置し、西は玄界灘、南西は仮屋湾にのぞむ。周囲は唐津市に接する。標高100200mの低い山が波状的に起伏する玄武岩質の上場台地(うわばだいち)が大部分を占める。1956(昭和31)、値賀(ちか)、有浦(ありうら)2村が合併して町制施行。面積は36km2。人口は6993(2003)

対馬暖流がながれる玄界灘を背景に県内有数の漁場として知られ、マダイやブリなどの沿岸漁業と、ハマチ、タイの養殖がおこなわれている。乏水地帯であるうえに平坦地も少ないが、棚田を利用した稲作や畜産業が盛ん。タマネギやダイコンの露地栽培、イチゴやメロンなどの施設園芸も多い。豊臣秀吉が北隣の唐津市鎮西町に名護屋城を築城したころから根づいた石材工業は今もうけつがれ、墓石や灯籠(とうろう)、建築用材を製造する。町内各地には江戸時代の石工がのこした狛犬(こまいぬ)や石塔が点在している。1975年に九州ではじめて運転を開始した玄海原子力発電所が今村地区にある。海岸部はリアス海岸で玄海国定公園にふくまれ、トリカ崎や池崎では一年をとおして磯釣り(いそづり)客でにぎわう。東光寺の木造薬師如来座像は国の重要文化財に指定されている。

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