森林破壊と里山

 「農耕の伝播と森林破壊」(環境考古学事始・安田 喜憲著抜粋)

   石油ショック以降、我々は、再びこの里山の重要性に気づき始めた。稲作伝播以降、約2000年にわたって日本人の生活と密接な関わりをもったこの里山の重要性を見直す時に至っている。そして、もう一度、人々の心の中に里山の風景を甦らせなければならない。

   洪水に埋もれた村

 稲作が導入されて、人々の暮らしは豊になった。弥生時代中期には、人口増加・鉄器の普及などによって、沖積平野には大集落が形成された。そして当時の技術をもって稲作が可能だった低湿地は、大半が水田化された。しかし、日本の川は急流が多く度々激しい洪水を引き起こす。このため、人々の生活は絶えず洪水の危険にさらされることになった。

 弥生時代以降の人類の沖積平野への進出は、洪水との戦いの始まりでもあった。その証拠に多くの弥生時代の集落は断絶と廃絶を繰り返している。勿論洪水などの天変地異以外に、戦争・略奪或いは疫病などによって廃絶したものもある。しかし、沖積平野に立地する多くの弥生時代遺跡は、絶えず風水害の危険にされされていた。

   里山の文化・風景

 水田稲作農業の導入以降、沖積平野周辺の平地林は破壊されつくした。しかし、森林の再生を不可能にする家畜を欠き、気候が温暖・湿潤な日本では、農耕地とならなかった丘陵や山地に、再び森が回復してきた。ヨーロッパや中国では、農耕の開始は一方的で森林の消滅を意味したのとは大きな相違であった。

 ただ回復した森の風景は、以前とは大きく異なっていた。森林が破壊された後には、アカマツ・スギなどの針葉樹林と、コナラ・クヌギ・クリなどの雑木林が成立した。特にアカマツは、こうした二次林を代表するものである。

 日本列島各地の花粉分析の結果から、マツ属花粉の出現率を見ると、稲作が早くから行われ、森林破壊が著しかった西日本、特に北九州・瀬戸内・近畿地方においては、古い時代から高い出現率を示す。そして、稲作の伝播ェ遅れた東北地方や北海道では、マツ属の増加期が西日本よりも遅れる。アカマツ林の成立には、人類の森林破壊が密接に関わっていることがわかる。

 家畜を欠いた日本では、山野の草木は化学肥料の普及まで、水田の重要な肥料であった。又薪をとり炭を焼くことは、極最近まで広く行われていた。食料となるクリやトチなどの木の実ややキノコ取り、シイタケを栽培し、山芋を掘る、イノシシやキジなどの山の獣も、貴重なタンパク源であった。又ナタネ油の行燈が普及する17世紀末までは、「あかし松」と呼ばれる松の根株が、重要な燈火材料であった。

 人里周辺の山林は、人々の生活に無くてはならないものであり、絶えず、人間の手が加えられていた。こうした農耕伝播以降、日本人の生活と密接な関わりをもってきた山を里山と呼ぼう。里山は、日本の風景を代表するものであるといっても良い。

   林地の荒廃

 中世までは、里山の人々の生活の間には、調和的関係が保たれていた。ところが、近世以降、人口の増加・都市的生活者の増大・塩田の乱立・窯業の盛行などによって、次第に里山は荒廃し、ハゲ山が増加し始めた。

 元禄期以降、江戸・京都・大阪などの都市的生活の発展に伴って、塩の需要が急増し、瀬戸内沿岸には塩田が乱立した。製塩燃料に薪には、割り木・松葉とか下草があり、火力の弱い松葉や下草が喜ばれた。火力が弱いと、急激な温度変化が無い為、均質な塩の結晶が得られるのである。

 都市的生活者の増加に伴って、都市でも深刻な薪不足に見舞われ始めた。そして、これに拍車をかけたのが、塩田の薪の買占めであった。私有林を持たず、薪の高騰で、薪を買う資産の無い都市的生活者や下層農民が、薪をできるのは、入会林地しかなかった。私有林に於いては管理が行きとどき、乱伐を免れたが、共同利用の入会地では、過度の乱伐が行われ、ハゲ山化していった。近世以降のハゲ山は、大半が入会林地の性格をもっていることが明らかにされている。

 第二次大戦後、塩田が輸入塩と科学製塩にとって変わられ、化学肥料が普及し、石油とガスの使用が一般化するに伴って里山の集約的利用は次第に少なくなっていった。

 里山の文化は、自然と人間が比較的調和的な関係の中において維持することができた日本独自の生活の知恵であった。そして、豊かな地方文化を維持し発展させたのも、この里山であった。

 石油ショック以降、我々は、再びこの里山の重要性に気づき始めた。稲作伝播以降、約2000年にわたって日本人の生活と密接な関わりをもったこの里山の重要性を見直す時に至っている。そして、もう一度、人々の心の中に里山の風景を甦らせなければならない。



  「里山の森と農耕文化」(「森と文明の物語」安田 喜憲著抜粋)

  里山と鎮守の森

 縄文人たちが持っていた森の時間認識を、現代の日本人、とりわけ山村の人々は体験的に理解できた。それは日本列島に縄文時代以来、絶えることなく森が存在し、森の時間に支配される生活が稲作農耕社会に入ってからも、永えいと続いたからに他ならない。その稲作農耕社会を代表するのが里山の森である。

 里山も鎮守の森も、共に森の民としての日本人の特色を示す言葉である。里山は農耕社会における生産と深く結びついており、鎮守の森は精神社会と深く結びついている。

 農耕の開始は、人類の文明を飛躍的に前進させた。しかし又、それは人類の自然環境の破壊を急速に推し進めた。世界の大森林の大半は、この人類の農耕活動によって伐り開かれ、消滅した。そりわけ羊や山羊などの家畜と穀物栽培をセットにして持つ麦作農業地帯の森林破壊は急ピッチで行われた。家畜は若芽を食べ、森の再生を不可能なものにした。

 このため、地中海沿岸のギリシャの森はプラトンの時代に大半は消滅していたし、イギリスでは16〜18世紀に国土の90%の森林が消滅した。古代ギリシャから近代ヨーロッパに受け継がれた文明が森林破壊の文明であった。

 これに対し、日本人と森との関わりにおいて幸いだったことは、水田稲作農耕が伝播した時、イネは伝播したが、食肉用の家畜を飼うことが普及しなかったことである。確かに弥生時代以降の水田稲作の発展によって、森林に対する破壊力は増大した。西日本の沖積平野のイチイガシ林や東日本のハンノキ林などは、こうした水田稲作をもつ農耕民の森林破壊によって、殆ど姿を消してしまった。ところが、背後の山地や丘陵には、一旦、原生林が破壊されたあと、再びアカマツやコナラ・クヌギなどの二次林が生育してきた。二次林の生育できたのは、森の再生を不可能にする家畜を欠如したこと、もう一つは森の再生に適した温暖で湿潤な気候条件のためである。

 こうして平野には水田が広がり、背後の山地や丘陵には、アカマツ・コナラ・クヌギ・シギなどの二次林が生育し、集落はその平野と山地の間に立地するという風景が、日本の農村を代表するものとなった。こうした稲作農耕社会の集落の周辺に成立した二次林を里山と言う。

 里山は、ヨーロッパの麦作農業地帯における家畜と同じ役割を日本の農耕社会の中で、担ってきた。日本人はこの里山の森を核とした地域システィムを確立することに成功した。家畜を地域システィムの核としたヨーロッパの農耕社会では、森は一方的な破壊の対象であった。これに対し、日本人は森を核とした地域システィムを確立し、森の生態系を自らの文明系の中に、巧みに取り入れることに成功した。

 日本人にとって、かつて森は日々生活を支えてくれる大切な資源の供給地であると同時に、またそこは神の宿るところでもあった。農耕社会における精神世界の核として、地域共同体の核を形成する場所に、人々は神々しい森を残した。鎮守の森には天まで届くようなスギの巨木や、荘厳さを漂わせるカシやシイの照葉樹林が選ばれた。神道は社を作って森を育てる森の宗教だった。

 ヨーロッパの農耕社会の地域システィムの核となった家畜は、神によって人間に利用されるために作られたものにすぎなかった。キリスト教的世界観の下では、神――人間――自然という縦系列の世界観が支配的であった。これに対し、日本の農耕社会の地域システィムの核となった鎮守の森は、神の宿るところであり、時には神そのものでさえあった。この点がヨーロッパと日本人の伝統的な自然観に大きな相違をもたらすことになった。


   里山の危機

 日本の過重までの工業技術文明への傾斜と都市中心型の経済構造の展開の中で引き起こされた、中国山地の島根県巴智郡大和村では、村の85%が山林であり、その山林の大半が薪炭用の雑木林であった。昭和33年の製炭戸数は430戸、ところが昭和37年には製炭戸は7〜8戸に激減。村の人口も急減した。

 その背景には、石油・ガスの普及による炭価の暴落があった。里山の森林資源が突然、経済的に無価値になる。里山の経済的無価値化は、里山を核とする地域システィムを根底から揺るがすことになった。

 近世中頃に顕著になった里山の第一回目の危機は、里山の経済的価値の増加(一時はブナ原生林の伐採が激しく行われ、この時点でブナ原生林が殆ど減少し、急峻な山岳地帯にしか残らなくなった。私見)の中で引き起こされたものであったが、昭和30年代の後半以降の高度経済成長期に中での第二回目の里山の危機は、その経済的無価値化によって引き起こされている。それは里山の崩壊を意味した。経済的に無価値になった里山の森林資源を、人々は見捨てざるを得なかった。

 里山の崩壊は、それを核とした森の文化の崩壊をも意味した。 人々は長年住みなれた山村を去り、大都市へと集中した。即ち過疎である。里山の森を核とした地域社会の崩壊は、日本文化の基層を形成してきた森の文化の断絶をもたらした。

 都市に住む子供は勿論のこと、農山村に住む子供にとっても、里山との関わりはもはやレジァーを通してしかなされていない。現代においては、森の時間はレジャーの中に生きている。里山の森との関わりが、その地域社会を維持するための基本的な生産活動と深く結びついていた時代の共生と循環の自然観は、急速に今、忘れ去られようとしている。そして、森の時間も忘れ去られようとしている。 里山の崩壊は、森の民としての日本人の心の崩壊とも、どこかで深く結び合っているように思えてならない。

 ともあれ、二十世紀後半の今日、私たちは縄文時代以来の日本文化の基層を形成してきた森の文化の、大きな転換期に生きていることは確からしい。(「森の文明の物語」1995年出版、安田 喜憲著抜粋)

このページのトップへ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送