照葉樹林文化論

  照葉樹林文化論をめぐって

 日本列島は、東日本のブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林と、西日本の照葉樹林によって、明白に染め分けられる。現在のような森林帯の分布が形成されたのは、縄文時代晩期の3500年前であることが分かる。

縄文時代晩期(3000年前頃)の日本列島の植生図

赤字が暖温帯落葉広葉樹林、黒色が照葉樹林 赤斜線が冷温帯落葉広葉樹林。

  縄文時代晩期の植生図は、年平均気温一℃現在より低かった状態として描かれている。北海道の道央部の山地と東部には亜寒帯針葉樹林が生育し、低地には針広混合林が生育している。又渡島半島から東北地方それに中部地方にかけては、ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林が拡大してくる。一方、照葉樹林は現在に近い分布域にまで拡大した。これに対し、縄文時代前期に広い分布を示していた暖温帯広葉樹林は、ブナ林と照葉樹林に生育地を奪われて、東北地方南部の太平洋側、中国地方の内陸部、近畿地方から四国の山間部に僅かに残るに過ぎなくなる。そうして、日本列島は、東日本のブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林と、西日本の照葉樹林によって、明白に染め分けられる。現在のような森林帯の分布が形成されたのは、縄文時代晩期の3500年前頃であることがわかる。

  照葉樹林の形成と縄文文化

  本格的な照葉樹林が西日本に形成されたのは、ようやく6500年前に入ってからである。そして、照葉樹林が現在のような分布域にまで広がったのは、更に後の時代のことであった。本格的な照葉樹林が、西日本一体に形成されるまでの間は、コナラ亜属を中心とする落葉広葉樹林が、旺盛な繁茂を示した。

  このように見てみると、日本の照葉樹林の歴史は以外に新しい。たかだか見積もっても7000年ぐらいしかない。既に一万年以上の歴史を持つコナラ亜属を中心とする落葉広葉樹林に比して、遥かに若い。日本の照葉樹林は未熟である。従って、照葉樹林と日本人とのかかわりの歴史も、ナラ林を中心とする落葉広葉樹林の森に比して、遥かに短い。

  縄文時代の早期の人々は、殆ど照葉樹林とは関係を持たなかった。西日本の人々が、カシやシイの茂る森と共に生活を始めたのは、縄文時代前期に入ってからである。しかし、当時の照葉樹林は拡大の最中にあり、西日本一帯が、びっしり照葉樹林に覆われるといった風景ではなかったろう。照葉樹林が現在の分布域に達し、安定した極相林として落ち着いたのは、縄文時代後期の頃である。この意味からして、照葉樹林文化は育み得る生態的なバックグラウンドが形成されたのは、縄文時代前期であり、照葉樹林文化地域として成熟し得たのは、縄文時代後期に入ってからであると言える。

 このように見てみると、照葉樹林文化は、縄文文化に当初から根ざした文化ではなく、外来の付加的要素の強い文化といえる。縄文文化は、落葉広葉樹林の伝統に根ざした文化として出発し、当初は照葉樹林とは何ら関係を持たなかった。縄文時代前期以降の照葉樹林の拡大に伴い、照葉樹林文化の要素が新しく縄文文化に付加されたと見ることが妥当ではないか。

  木の実の生産量

  縄文時代は木の実が主食だった。彼らにとっては、木の実がどれだけ取れるかは、死活問題であった。落葉広葉樹林の森では、ミズナラ・コナラ・カシワ・クヌギなどのドングリの類、ブナ・トチノキ・クルミ・ハシバミ・クリなどが、照葉樹林では、アカガシ・アラカシ・イチイガシなどのカシ類とツブラジイ・スダジイ・マテバシイなどのシイの実が、主として採集された。しかし、照葉樹林の主要な構成種であるタブやクスノキの実は食べられない。食用にできる植物は、落葉広葉樹林に多い。されに、食用にできる木の実の生産量について見ると、照葉樹林よりも落葉樹林の方が、圧倒的に多い。特に、クリ・コナラの林では、生産量が高い。

  この木の実の生産量という観点から見ると、照葉樹林の出現は縄文人にとっては、必ずしも良い環境をもたらしたとは言えないのである。人類を取り巻く環境が、落葉広葉樹林から照葉樹林に変化した時、人類の文化・生活はいかなる影響を受けたか。ナラ林に文化の基底を置いて出発した縄文文化が、照葉樹林の出現によっても、大きく変化することがなかったか。或いは逆に、照葉樹林の拡大に伴い、新たな文化要素が出現したか。この問題の解明は、照葉樹林の出現が、果たして、照葉樹林文化という名に値するほどの変化を縄文文化の中にもたらしたかどうかの検証にもなる。

  こうした問題を解明するのに、私は最も優れた遺跡とめぐりあった。その遺跡は若狭湾に面した福井県鳥浜貝塚である。

(環境考古学事始め・安田 喜憲著抜粋

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